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この最後のポイントがこの作戦の論議を呼ぶところである。ジャーメインはハウの手紙を受け取った後にバーゴインの計画を認めている。ハウはフィラデルフィア攻略に向かうので、年内は北方部隊を支援できないと言っている。ジャーメインがハウの改定案をバーゴインに告げたかどうかは不明である。おそらく告げたと思われている。[3]ハウがカナダからの侵攻を支援することについて、ジャーメインとハウとバーゴイン3者が同じ予測を立てていたかどうかも不明である。ハウは指示に従えずバーゴイン軍を根本的に捨てたのだという者もいる。バーゴインが使命を果たせず、その責をハウとクリントンに負わせようとしたのだという者もいる。[4]確かなことはジャーメインが彼の部下たちに自由度を与えすぎたか、あるいは戦略全体がはっきりとはしていなかったということである。[5]
バーゴインは1777年5月6日にケベックに戻った。今回の計画、一部詳細は欠けていたが、これを紹介するジャーメイン卿の手紙を携えて、である。このことはイギリス軍を窮地に追いやるもう一つの矛盾を抱えていた。通常、中将であるバーゴインはカールトン少将より階級が上である。しかし、カールトンはカナダの総督であった。カールトンはバーゴインの要求するカナダ駐在軍のクラウン・ポイントとタイコンデロガ砦攻めへの拠出を拒んだ。彼は更にバーゴインにカナダ駐在軍に一部残していくようにさえ要求した。6月までに全てが整い、軍隊は進撃を始めた
バーゴインは1777年6月に進軍を開始した。彼は南に向かい、湖を経てハドソン川を下り、オールバニに至る計画であった。6月13日までに彼はセントジョーンズに部隊を集結させた。彼は昨年バルカー島で手間取ったが、今回は水軍も強力であり、昨年の二の舞をするつもりは無かった。昨年の5隻の帆船に加えて6隻目を造り、バルカー島の戦いでベネディクト・アーノルドから3隻を奪っていた。これに加えて、28隻の武装バージと大砲を載せたボート、輸送用の1隊のカヌーとバトー(平底ボート)があった。
彼の軍勢は7,800名の兵士と軽迫撃砲から24ポンド砲までの大砲が130門あった。彼の正規軍は2部隊あった。1つはウィリアム・フィリップ少将のイギリス正規軍3,700名を右翼に、もう1つはリードセル少将のブランズウィック公国兵3,000名を左翼に置いた。彼の正規軍は十分な装備で出発したが、荒地での戦闘への準備が不足していた。
チャンプレイン湖を南に向かう時、バーゴイン部隊の水軍、砲兵隊と歩兵隊の組み合わせは大陸軍の防御を破るのに十分に思えた。大陸軍のフィリップ・スカイラー将軍はタイコンデロガ砦はとても持ち堪えられないと思っていた。しかし、彼はアーサー・セントクレア将軍に迎撃隊を任せ出来るだけ長引かせてから撤退するように指示していた。6月24日にバーゴインはクラウンポイントを抵抗無く占拠した。彼は防御を強化し火薬庫と補給所を造りタイコンデロガ砦の攻撃に備えた。
バーゴインもスカイラーもタイコンデロガを取ることが重要だと認識していた。イギリス軍は砦を見下ろすシュガー・ローフという丘の上に大砲を担ぎ上げた。セントクレアは夜陰に紛れて撤退し、バーゴイン軍は7月6日に砦とインデペンデンス山の先物取引
を占拠した。後日の調査では、スカイラーもセントクレアもこの撤退は間違いだったとしている。大陸会議は北方軍の指揮官をスカイラーからホレイショ・ゲイツに交代させた。
タイコンデロガから撤退したセントクレアは兵を引き続けた。バーゴインは彼の主力部隊に追跡を命じた。彼らは少なくとも3度撤退する大陸軍と遭遇している。大きな交戦はハバードトンであり、他にアン砦とスケンスボロであった。これら全体で大陸軍の損失はイギリス軍の損失に比べ5割以上多かった。セントクレアは何とかエドワード砦でスカイラー将軍の部隊に合流し、まだイギリス軍に抵抗できると考えていた。バーゴインは7月7日にアン砦を奪取し、7月8日にスケンスボロに上陸した。
ここまではイギリス軍の思い通りに進んだが、ここから事態は悪い方に進んだ。バーゴインは多少の損失を被っていた。220名の死傷者は小さなことかもしれないが、クラウンポイントの火薬庫に400名、タイコンデロガ砦に900名の守備隊を残していた。彼はタイコンデロガ砦まで戻ってジョージ湖を船で南の端まで進むという選択もできたが、これは撤退のように見えたのかもしれない。彼は陸上をエドワード砦に進むという致命的な決断をしてしまった。彼はバンカーヒルの戦いで被った損失を繰り返したくなかったので、砲兵隊と十分な火力を保つための輜重部隊が必要だと思っていた。
スカイラーとセントクレアはこの工程を出来る限り困難なものにしてやろうとしていた。この時点の彼らの主な武器は斧であったが、その使い方には1日の長があった。敵軍の進路に大きな木を切り倒して置くことが、それを取り除くよりも簡単なことであった。彼らは行軍期間の引き伸ばしをやり、兵士を疲れさせ、兵糧を使わせた。ベネディクト・アーノルドが7月24日に加わり、彼らの計画を支援し、スタンウィックスでセントリージャーの部隊を食い止める方に回った。この戦術によってバーゴインは大砲を運ぶために荒野に道を作って進むしかなかった。彼の歩みは1日に1マイルしか進まなかった。彼は7月29日にエドワード砦をほとんど交戦も無く占拠した。スカイラーはスティルウォーターまで撤退し、大陸軍はエドワード砦からサラトガに至る道も同じように引き伸ばし戦術を繰り返した。
セントリージャー中将の部隊はセント先物取引
を遡り、オンタリオ湖を横切り、無事にオスウェゴに到着した。彼の部隊は300人の正規軍と650人のカナダ人王党派民兵であり、さらにジョン・バトラーとモホーク族の指導者ジョセフ・ブラントに率いられた1,000人のインディアンが加わった。7月25日にオスウェゴを離れ、スタンウィックス砦の包囲に向けてモホーク川を下った。約800人の大陸軍市民兵と同盟インディアンが包囲を破ろうとしたが、8月6日のオリスカニィの戦いでイギリス軍とインディアンの待ち伏せに合い蹴散らされた。
8月10日に、ベネディクト・アーノルドがスカイラーの北方軍から800人を割いてスティルウォーターを出発した。彼は8月21日に到着したデイトン砦の近くで市民兵を使えると期待していた。彼はそこでほんの100人しか市民兵を募れなかったので、調略に頼ろうとした。彼は捕虜を逃がしてセントリージャーにアーノルドが大軍でやってくると伝えさせた。
この知らせに日経225
からブラント以下インディアンの部隊が抜けた。リージャー隊らは残していた補給物資を持ってオスウェゴを通りカナダに戻った。アーノルドは一部の部隊に彼らを追わせ、残りの部隊でサラトガの戦いを支援するために向かった。セントリージャーの部隊はカナダに戻り、バーゴインは孤立した。
シャイラー、セントクレア、およびアーノルドによる遅延戦術が続いていた。イギリス軍のバーゴイン将軍はその問題を放置できず、補給線を確保するために後方に兵士を残しておかねばならなかった。彼の同盟インディアン達は辛抱できないようになり、近辺の開拓者を襲い始めた。このことは大陸軍の抵抗が減るにつれ増加した。保守派の植民であるジェーン・マックレアの死が引き金となって地域の住民が大陸軍支持に回った。日を追う毎に大陸軍は市民兵の部隊や個人が集まり強化された。シャイラーはスタンウィックス砦を守るためにベネディクト・アーノルドを派遣し、タディアス・コシューシコにはサラトガとオールバニの間のベミス高地に砦を造らせた。
バーゴイン軍は物資が乏しくなっており、とりわけ道路工事と大砲などを引く馬がFX 初心者
していた。そのために餌を取りに行く部隊を派遣しなければならなかった。ドイツ人傭兵部隊の竜騎兵が馬不足に見舞われていたので、フリードリッヒ・バウム大佐の部隊をブランズウィックの竜騎兵とともに西のマサチューセッツやニューハンプシャーに送った。派遣した部隊は戻らなかった。その補強に向かわせた部隊は8月15日のベニントンの戦いから疲れきって戻り、1,000人近い兵士がもっと欲しい補給物資とともに失われた。
遅延戦術がうまくいっている一方で、大陸会議は違う方向に行っていた。ホレイショ・ゲイツ将軍は、大陸会議がタイコンデロガ陥落の衝撃にうろたえているときにフィラデルフィアにいたが、失敗した将軍たちに責めを追わせようとしていた。大陸会議の代議員の中にはジョージ・ワシントン将軍に我慢できなくなっているものもいた。ワシントンは大規模な直接対決を望んでいたが、それは占領軍を排除できるかもしれないし、戦いに負けるかも知れなかった。戦争委員会の委員長であるジョン・アダムズはゲイツを誉めて「我々は将軍を射止めるまではポストを維持しないだろう」と言った。ニューヨークの代議員の反対にも拘わらず、大陸会議はゲイツを北方部隊の指揮に向かわせた。
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